最近ブームになっている瀬織津姫

最近、スピリチュアル系のコミュニティで注目を浴びているのが瀬織津姫。

  • 瀬織津姫からのメッセージを受け取ったので、皆さんと共有したいと思います!
  • 歴史から封印された女神、瀬織津姫とは一体何なのでしょうか?
  • 瀬織津姫は龍神の使者だったという説もあります!

などなど、瀬織津姫をGoogleやYouTubeで検索すれば、すぐに情報が出てくる。

これは、2016年に大ヒットした映画『君の名は。』が影響しているのだろうと思われる。

新海監督は、『君の名は。』のヒロインは罔象女神-ミツハノメノカミをモデルにして命名したとコメントしたことで、スピリチュアル系ブログではミツハノメノカミの別名は瀬織津姫だとか、瀬織津姫は水の神様であり映画のヒロインの実家は宮水神社で「水」繋がりだとか、ヒロインが巫女舞をした時の装束の髪飾りと神楽鈴に龍の模様が型取どられていた、などなど多数の記事がアップされている。

実際のところ瀬織津姫は古事記や日本書紀には記されていないことからどのような働きをした女神なのか知ることができず、それなのに大祓祝詞の一節にはその名がシッカリと記されており、水に関係する女神であり罪や穢を祓い清める祓戸大神の 1柱だと知ることができるが依然として謎の女神として印象が強い。

高山の末。低山の末より。佐久那太理に落ち多岐つ。早川の瀬に坐す。瀬織津比売と伝ふ神。大海原に持出でなむ。此く持ち出で往なば荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す。速開都比売と伝ふ神。

こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる瀬織津比売と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう。このように瀬織津比売によって持ち出された罪を、今度は人が近づけないほどの大海原の沖の多くの潮流が渦巻くあたりにいらっしゃる速開津比売という勇ましい女神が、その罪をガブガブと呑み込んでしまわれることだろう。

大祓祝詞現代語訳

荒祭宮

伊勢神宮に行ったら参拝しておきたい、、、いや、参拝すべき場所がある。

それは、内宮に鎮座する荒祭宮

現在の伊勢神宮公式サイトでは、荒祭宮は正宮の北方(正宮の後方)に位置する別宮で、正宮に次いで尊いとされており天照大御神の荒御魂が祀られている、としている。

荒祭宮へのルートは、正宮を参拝した後、御稲御倉や外幣殿という高床式の建物がある参道を進んで行くのがモデルコースとして紹介されている。

写真中央に見える案内板に従って荒祭宮方面への道を折れて進むと太く大きな樹木がある。皆が撫でるので樹皮がピカピカと光沢を帯びている。

写真では見えづらいが大木の左斜めにある参道沿いの建物が御稲御倉。どん突きに見える建物が外幣殿。

外幣殿の前は直角に道が折れている。

外幣殿を通り過ぎ、さらに荒祭宮への案内板に沿って進むと…

伊勢神宮では個人的な願い事はこの荒祭宮でするのが仕来り。

天照大御神が祀られている正宮では個人的な願い事はせず、日々何事もなく平穏無事に過ごせていることを感謝する場。

伊勢神宮を参拝したあなたは慣例に習い、個人的な願いごとは荒祭宮でするようにしてみてはいかがでしょうか。

荒祭宮の御祭神は瀬織津姫

神護景雲2年(768)撰録と伝えられている「大和姫命世紀」には、荒祭宮に瀬織津姫が鎮座と記されている。

荒祭宮一座 皇太神宮荒魂 伊弉那伎大神の生める神 名は八十枉津日神なり 一名 瀬織津比咩神 是也 御形は鏡に座す

出典:愛知県図書館 貴重和本デジタルライブラリー

古事記や日本書紀の原典とされる『ホツマツタヱ』によると、アマテル大御神には 13人の妃がいて、正妃が瀬織津姫であると記されている。

ツボネ制度を試行するに当たっては、東西南北の各ツボネを輪番制とし、宮仕えを定期的に交代させました。各ツボネの宮仕えが一渡りしたところで、ワカヒト(アマテル大御神の斎名)の心を捉えたのはセオリツ姫ホノコでした。最も性格が素直で教養あふれる優雅な物腰の女性として、セオリツ姫はワカヒトの目に留まったのです。ワカヒトは自ら高殿の階段を踏み降りてセオリツ姫の手を取り、大内宮に招き入れました。セオリツ姫は正后として迎えられ、天下がる日に向かう月に準えて「ムカツヒメ(向つ姫)」と呼ばれるようになったのです。

きつさねの つほねはかわり みやつかゑ そのなかひとり すなおなる
せおりつひめの みやびには きみもきさはし ふみおりて
あまさがるひに むかつひめ ついにいれます うちみやに

引用:今村聰夫 はじめてのホツマツタヱ 天の巻 株式会社かざひの文庫

瀬織津姫は佐久那太理とも言う。大祓祝詞の一文にも佐久那太理を読めるが、サクナダリとは「勢いよく落ちるさま」の意味で、アマテル大御神が階段を踏み降りるさまを言う。

セオリツは「背降りつ」でアマテル大御神が階段を踏み降りて大内宮に招き入れたことを意味する。

他、アマサカルムカツヒメ(天下がる日)に(向つ姫)とも呼ばれる。斎名はホノコ。

父はサクラウチ。桜大刀自とも言う。古くはイザナギとイザナミに仕えていたが、その後、アマテル大御神の右大臣となった。

さて、古事記は和銅5年(712)に太安万侶が編纂し元明天皇に献上したというのが私たち現代人の一般的な認識だが、古事記を読むとストーリーとして辻褄が合わないことが目につく。

その一つ一つは事実が書かれているのであろうが、Aと Bの話をエイヤっと無理やりくっつけて編集している感が否めない部分が多々ある。

一部の人々の間で囁かれている、古事記が献上された当時の第 43代元明天皇を正当化するために最高神が女神に書き換えられた。

また、他方では第 41代持統天皇が自身の孫に天皇を継がせようと画策し、伊勢神宮の祭神の性別を男から女に変えさせ天孫降臨という話をでっち上げ、持統天皇から孫への継承を正当化しようとしたとまで持論を展開している人もいる。

いずれの天皇も女性である。

どちらにしても、アマテル大御神の正妃である瀬織津姫の存在はどのようにストーリーを改ざんしても設定に無理があるため「いっそのこと消し去ってしまえ」ということになったのではないかと考えられなくもない。

歴史から封印された女神……瀬織津姫

しかし、大祓祝詞や「大和姫命世紀」などの神典までは改ざんできなかったのか、瀬織津姫の痕跡はありありと残されていた。

荒祭宮で個人的なお願いをする理由

古い時代には天皇以外の個人的なお供えを禁ずる私幣禁断制度があった。今もその名残が残っていて正宮には賽銭箱がない。

そして、どの時代の天皇も無私に民の幸せの祈りを天照大御神にしていることから、正宮では個人的なお願いはタブーであると、伊勢神宮めぐりを詳しく紹介している多くのブログ記事に書かれているのだろう。

そうは言っても神社の頂点にある伊勢神宮に来たからには個人的なお願いもしたいと思うのが人情。

というわけではないだろうが、個人的な願いごとは荒祭宮ですることを勧めている。その理由は、荒祭宮には天照大御神の荒々しく勇ましい荒御魂が祀られていて、その強い力で願いが叶うように後押ししてくれるからだと多くのブログが紹介している。

さて、ここからは前項で荒祭宮に瀬織津姫が祀られていることを紹介したので、ホツマツタヱを引用しつつ、荒祭宮で個人的なお願いをする理由を豊かに想像してみる。

成長してその後、ワカ姫がイサワ(三重県伊勢市付近)の宮にお仕えしている時、キシヰ邦(和歌山地方)の稲田でホヲムシ(蝗)の大発生があり、稲穂の成育が悪くなりました。嘆き悲しんだ農民の使者が、その状況を告げるためにイサワの宮にやって来ましたが、あいにくアマテル大御神は天(アマ)のマナヰ(真名井/京都府宮津市)に行幸された後で、不在でした。アマテル大御神に代わって被害の状況と民の嘆きをお聞きになった正后セオリツ姫は、ワカ姫を伴って急ぎキシヰ邦に行啓されました。二人して田の東側に立ち、古の教ゑにしたがって『ヒアフギ(桧扇)』で扇ぎながら、ワカ姫が祓いの歌を詠むと、ホヲムシは徐々に稲から離れ始めました。そこでセオリツ姫は二人を中心に、三十人の侍女を左右に振り分けて立たせ、声を合わせてこの歌を歌わせます。それは稲虫を祓うワカのまじない歌でした。

しかるのち いさわのみやに はへるとき きしゐのいなた ほをむしに

いたむおなけき あるかたち つくるいさわの ををんかみ あまのまなゐに

みゆきあと たみのなけきに むかつひめ いそききしいに ゆきひらき

たのきにたちて おしくさに あほくわかひめ うたよみて はらひたまえは

むしさるお むかつひめより このうたを みそめおまてに たたつませ

おのおのともに うたはしむ いなむしはらふ わかのましない

今村 聰夫 はじめてのホツマツタヱ 天の巻  株式会社かざひの文庫

ワカ姫とはアマテル大御神の姉のことだが、ここでは説明を割愛する…

アマテル大御神は国を治めるために近隣諸国を行幸され不在にしていることが多かったのだろう。

不在がちなアマテル大御神の代わりとなって民からの陳情を聞き、それにふさわしい采配をとっていたのが瀬織津姫だった…

悠久の時を経た今であっても、瀬織津姫へ個人的な願い事を申し述べる。イサワの宮に陳情に伺ったあの農民のように。

神代の時代を思い浮かべ、荒祭宮に瀬織津姫が居ることを想像して参拝すると、人とはちょっと違う伊勢神宮参拝が楽しめるのではないだろうか。


1件のコメント

小林喜久男 · 2021年3月19日 10:18

古い漢字はないものかと調べているうちにここに来ていました。神宮とは何か縁があるのかとさえ感じがしましたです。昔々、(1600年代)先祖がこの地で宿をしていた名残で参宮街道と宮川の渡し沿いにある古民家を改造しているのですが石を置き古い漢字で「参宮街道小俣宿」と書こうと考えていました。

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